LOGIN息を吸った瞬間、胸の奥で砕けた骨が鳴った。
リュゼルは目を見開き、喉まで込み上げた声を噛み殺した。冷えきった空気が肺へ入る。それだけのことで、内側から細い刃を差し込まれたような痛みが走った。
痛い。
その事実に、しばらく思考が追いつかなかった。
痛みを感じるのは、生きているからだ。
奈落へ落ちた。底へ叩きつけられた。全身の骨が砕ける音を、自分の耳で確かに聞いた。血が流れ、指先から温度が失われていくのを覚えている。
そのあと、黒竜へ触れた。
途方もなく長い苦痛を受け取り、金色の瞳が閉じるのを見届けた。
「……生きて、いるのか」
声にすると、余計に信じられなかった。
仰向けになっていた身体を起こそうとし、脇腹へ激痛が突き抜ける。視界が白く弾け、肘をついたまま動けなくなった。浅い呼吸を繰り返し、吐き気が遠ざかるのを待つ。
左手で脇腹を探ると、服は大きく裂け、乾ききらない血で固まっていた。だが、その下にあるはずの深い傷は塞がっている。指に触れたのは、盛り上がった不揃いな皮膚と、熱を持つ硬い傷痕だった。
脚も同じだった。
左脚は膝の下で折れ、あり得ない方向へ曲がっていたはずなのに、今はつながっている。慎重に爪先を動かすと、足首まで感覚が通った。ただし骨は僅かに歪み、左右で長さが違う。立てたとしても、まともには歩けそうになかった。
治ったのではない。
壊れた器を、形だけ無理に継ぎ合わせたようだった。
右腕だけは、別の痛みを訴えている。
肘から指先まで、黒銀色の紋様が幾重にも巻きついていた。古い墓碑に刻まれた文字にも、絡み合った蔓にも見える。心臓が脈打つたび、焼けた鉄を押しつけられたような熱が肩へ向かって這い上がった。
あの黒竜から流れ込んだ炎。
翼。
記憶。
果たされなかった願い。
思い出そうとした途端、視界の端で黒いものが揺れた。
リュゼルは息を止めた。
空中に、見覚えのない文字が浮かんでいる。紙も石板もない。指で触れようとすると、文字は水面の影のように揺れ、掴む前に元の形へ戻った。
《葬送継承・竜哭王ヴァルディオス》
《継承能力・黒竜鱗》
《継承能力・夜目》
《継承能力・残火》
一字ずつ目で追ううち、黒い文字は薄くなり、闇へ溶けていった。
「葬送……継承」
声に出しても、意味は分からない。
《看取り人》に、このような力があるなど聞いたことがなかった。職能鑑定を行った神官は、死にゆく者を静かに見送るだけの補助職だと告げた。痛みを和らげることはできても、傷ひとつ治せず、戦う力も得られない。そう笑われてきた。
右腕の紋様を見下ろしているうち、別の違和感に気づいた。
周囲が見えている。
燐火はない。陽光など届くはずもない奈落の最深部。それなのに、岩肌の亀裂も、足元に散った小石も、血で黒く濡れた自分の指も、輪郭を失っていない。
色だけが夜に沈み、すべてが淡い銀灰色を帯びていた。
《夜目》。
先ほど浮かんだ文字が、遅れて意味を持つ。
リュゼルは右目を手で覆った。左目だけでは、闇はただの闇だった。左を閉じ、右を開けば、遠くの岩壁まで明瞭に見える。
落下する直前まで淡い灰青色だった右の瞳は、今はどのような色をしているのだろう。
金色の瞳から落ちた、黒竜の最後の涙が脳裏をよぎる。
「あの竜は……」
隣へ顔を向け、言葉を失った。
そこに黒竜の巨体はなかった。
岩鎖に貫かれていた場所へ残っているのは、山のように積み重なった骨と、黒い灰だけだった。盾より大きな鱗も、石を焼いた血も、夜そのものに見えた肉体も消えている。
巨大な頭蓋が、空洞になった眼窩をこちらへ向けていた。
目を閉じることさえ、もうできない。
リュゼルは左腕で地面を押した。歪んだ脚へ力をかけると、骨の接ぎ目が軋んだ。額から冷たい汗が噴き出す。それでも頭蓋の傍らまで這い、散らばった灰へ手を触れた。
まだ、かすかに温かい。
「こんなところに、置いていけないよな」
答える者はいない。
腰を探ると、革袋だけは残っていた。中身は解体用の小刀と火打ち石、空になった水筒、短い縄。予備の食料も回復薬も、背負い籠とともに落下の途中で失っている。
小刀を杖代わりに地面へ突き、少しずつ身体を起こした。
近くに散らばる平たい石を、一つずつ拾う。
片手では、大きな石を持ち上げられない。右腕を動かそうとすると、墓碑紋が赤熱し、肩まで鋭い痛みが駆け上がる。左手だけで引きずり、積み、崩れればまた積み直した。
石と石が触れ合う乾いた音が、広い空洞へ何度も響く。
途中で脚が耐えきれず、二度倒れた。一度目は肘を擦り剥き、二度目は塞がった脇腹が裂けた。黒い床へ新たな血が落ちる。起き上がるたび、何のためにこんなことをしているのかと、自分でも思った。
それでもやめられなかった。
死んだあとまで、役に立つものだけを奪われ、名も残されず捨てられる。
それがどれほど冷たいことか、リュゼルは知っている。
孤児院で死んだ子どもたちは、墓石を与えられなかった。名を書いた木片さえ、冬を越すための薪にされた。埋めた場所を忘れないよう小石を並べたのは、いつもリュゼルだった。
やがて、黒い灰を囲むほどの低い石積みができた。
巨大な骨をすべて納めることはできない。小さな骨片と灰を集め、石の内側へ置く。頭蓋の正面には、細長い黒石を立てた。
粗末な墓標だった。
それでも、何もないよりはいい。
リュゼルは石へ左手を添えた。
「助けてくれたのに、名前も知らないままじゃ嫌だ」
呟いた瞬間、頭の奥へ低い音が流れ込んだ。
声ではなかった。
炎を孕んだ風と、遠雷と、無数の竜が翼を打つ音。それらが一つの名を形づくり、リュゼルの魂へ沈んでいく。
ヴァルディオス。
竜哭王ヴァルディオス。
「……ヴァルディオス」
名を呼ぶと、右腕の墓碑紋が脈打った。
目の前の空洞が消える。
代わりに現れたのは、炎に包まれた黒い城だった。
天を突く尖塔が崩れ、石造りの回廊へ黒煙が押し寄せている。甲冑を着た者たちが、地面へ幾重もの鎖を打ち込んでいた。鎖の先では、まだ傷ひとつなかった黒竜が翼を広げ、城門を塞いでいる。
その足元を、小さな影が走っていた。
銀色の長い髪。
黒い衣をまとった、幼い少女。
少女は何度も振り返り、黒竜へ手を伸ばした。泣き叫んでいるはずなのに、声だけが聞こえない。
逃げろ。
黒竜の思いが、熱となって胸を焼く。
城壁から放たれた無数の刃が、広げられた片翼を貫いた。骨が断たれ、黒い翼が地上へ落ちる。ヴァルディオスは倒れながらも巨大な爪を伸ばした。
少女を守ろうとして。
せめて、もう一度その頬へ触れようとして。
けれど爪は届かない。
少女の姿が閉じる門の向こうへ消え、黒い鎖が竜の首と四肢へ巻きついた。
そこで記憶は途切れた。
リュゼルは墓標の前へ膝をついていた。
喉の奥から、潰れた息が漏れる。頬を伝うものに触れて、初めて自分が泣いていると気づいた。
ヴァルディオスの喪失が、胸の内側を爪で抉っていた。
銀髪の少女を探さなければならない。
鎖を断ち、今度こそあの小さな手へ届かなければならない。
強い衝動に突き動かされ、立ち上がりかける。だが歪んだ脚が崩れ、両膝を石へ打ちつけた。
「違う……」
荒い呼吸の合間に、自分へ言い聞かせる。
「これは、俺の記憶じゃない」
少女の名も知らない。顔さえ、炎と煙の向こうに霞んでいた。
それでも胸は、彼女を失った痛みを知っている。
探したいと願っているのは、自分なのか。
ヴァルディオスなのか。
境目が分からなかった。
もしも継承するたびに、死者の記憶と願いが流れ込むのなら、その果てに残るものは、本当にリュゼル・クレインなのだろうか。
右腕の紋様が、答えるように熱を増した。
不意に、石の向こうで何かが擦れた。
リュゼルは顔を上げた。
暗がりに、白い点が二つ並んでいる。
次いで、三つ、五つ、十。
《夜目》が闇の奥から引き出したのは、犬ほどの大きさをした魔物だった。皮膚は半透明で、浮き出た肋骨の間に濁った臓器が脈打っている。顔の半分を占める口から、黒ずんだ牙が幾重にも突き出していた。
《骨喰い》。
死肉と骨髄の臭いを嗅ぎつけ、群れで現れる下層の魔物。
一匹が鼻先を上げ、湿った呼吸を漏らした。
ヴァルディオスの骨を狙っている。
リュゼルは小刀を抜き、墓標の前へ立った。刃渡りは手のひらほどしかなく、解体のため何度も研いだ刃は薄い。戦闘用の武器とは呼べなかった。
「近づくな」
声が震えた。
骨喰いたちは足を止めない。爪が岩を掻く音と、生臭い息が少しずつ近づいてくる。
逃げるべきだった。
背を向けて走ることができるなら。
だが一歩退いた途端、左脚が折れ曲がり、膝から床へ落ちた。小刀の切っ先が石を弾く。
先頭の骨喰いが、身を低くした。
喉の奥で唸り、飛びかかるため後肢へ力を溜めている。
右腕が熱い。
《継承能力・黒竜鱗》。
あの黒い文字を思い浮かべた。
「力を……貸してくれ、ヴァルディオス」
墓碑紋が燃え上がった。
最初に変わったのは右手だった。
皮膚の下で骨が膨らみ、指の節が太くなる。爪が黒く伸び、腕を覆うように硬い鱗が次々と生えた。鱗は肩を越え、胸と首、左腕、頬へ広がっていく。
「ぐっ……あ、ぁ……!」
身体が内側から押し広げられる。
つながったばかりの骨が軋み、筋肉が引き裂かれた。背中では存在しない翼の骨が形を得ようと蠢いている。熱い血が口から溢れ、石床へ滴った。
止め方が分からない。
右腕だけを守るつもりだった。それなのに、ヴァルディオスの巨体が、人間の身体を内側から塗り替えようとしている。
「やめ……ろ……っ」
喉が膨れた。
呼吸とともに黒金の火の粉が漏れる。
「ガァァアアアアアアア――ッ!」
空洞を揺るがしたのは、人間の叫びではなかった。
岩壁から砂と小石が降り、骨喰いたちが一斉に身を竦ませる。尾を腹へ巻き込み、甲高い鳴き声を上げながら闇へ逃げていった。
追い払えた。
そう理解しても、変化は止まらなかった。
鱗が喉を塞ぎ、息が吸えない。胸郭は黒竜の大きさを求めて軋み続けている。金色に染まった右の視界へ、知らない空と、燃える城と、倒れていく竜たちの姿が重なった。
リュゼルは両手で頭を抱えようとした。右手の爪が額を裂き、温かな血が目へ入る。
自分の名が遠ざかる。
リュゼル。
誰の名だったのか、一瞬だけ分からなくなった。
「その力を止めなさい」
暗闇の奥から、少女の声が届いた。
冷たく澄んだ声だった。命令に慣れた響きを持ちながら、微かな焦りが隠れている。
「今使えば、あなたの身体が先に壊れる」
「……誰だ」
返した声には、まだ獣の唸りが混じっていた。
少女は問いに答えない。
「力を借りるのではなく、返すところを思い描きなさい。墓碑へ戻すのです。あなたは竜ではない」
リュゼルは震える左手を、墓標の黒石へ伸ばした。
自分は竜ではない。
燃える城を守っていた王ではない。
辺境の孤児院で育った、リュゼル・クレインだ。
指先が石へ触れた瞬間、身体を覆っていた鱗が黒い火の粉へ変わった。火の粉は右腕の墓碑紋へ吸い込まれ、膨らんだ骨が元の形へ戻っていく。
激痛のあとに、身体からすべての力が抜けた。
リュゼルは墓標へ縋りつき、咳き込んだ。喉から黒い煙と血が吐き出される。意識が沈みかけるたび、左手の爪を石へ立てた。
ここで気を失えば、骨喰いたちは戻ってくる。
すでに遠くから、爪が床を叩く音が聞こえ始めていた。
「死にたくなければ、右へ三十歩進みなさい」
少女の声が再び響く。
右目を凝らしても、声の主は見えない。岩壁と崩れた石柱が続くだけで、人が隠れられる場所もなかった。
「姿を見せろ」
「できるのなら、そうしています」
僅かな沈黙のあと、鎖が擦れる音がした。
「あなたを助ける理由も、私を信じる理由もありません。けれど、そこに留まれば骨喰いに喉を裂かれる。それだけは確かです」
冷淡な物言いだった。
だが、先ほど力の止め方を教えられなければ、黒竜の力に身体を食い破られていた。
リュゼルは小刀を拾い、縄で左脚をきつく縛った。痛みに視界が明滅する。空の水筒を腰へ戻し、墓標へ振り返った。
「ヴァルディオス。必ず、また来る」
自分の言葉なのか、受け継いだ願いに言わされたのかは分からない。
それでも、名を呼ぶことだけは自分で選んだ。
背後で骨喰いの唸り声が重なる。
リュゼルは壁へ左手をつき、歪んだ脚を引きずった。
一歩。
胸の骨が軋む。
二歩。
右腕の紋様が焼ける。
三歩。
腐臭が背中へ迫る。
声を信用してよい根拠など、どこにもなかった。
それでも死ぬために捨てられた場所で、初めて差し出された道だった。
リュゼルは暗闇の右手へ向かい、四歩目を踏み出した。
天井が落ちた。巨大な石塊が黒紫色の魔力に触れた途端、粉々に砕ける。砂塵が一気に舞い上がり、視界が灰色へ染まった。折れた柱が回廊を塞ぎ、床から噴き出した魔力が黒い雷のように壁を走る。「ネフィリア!」リュゼルは叫びながら腕で顔を庇った。返事はない。中心にいるネフィリアは、両足を床へつけてすらいなかった。銀白の髪を逆巻かせ、ほんの少し宙へ浮かんでいる。背中から広がった巨大な黒紫色の翼が、彼女の細い身体に到底収まるとは思えないほどの魔力を放ち続けていた。完全に解放された力。数百年分。本来なら長い時間をかけて身体へ馴染むはずだったものが、一度に戻っている。「シュカ!」奥の部屋へ向かって叫ぶ。「みんな連れて奥へ!」返事。聞き取れない。だが子どもたちの足音が遠ざかっていく。逃げるなら今だった。神殿そのものが崩れている。出口まで走れば、間に合うかもしれない。ネフィリアを置いて。その考えが頭を掠めた瞬間。リュゼルは自分でそれを切り捨てた。できるはずがない。自分が手を伸ばすと決めた。掴むかどうかは彼女に任せる。だが、彼女が掴んだ後でこちらから手を離すつもりはなかった。「ネフィリア!」魔力の奔流へ飛び込む。肌が裂ける。見えない刃で切り刻まれるような痛み。外套が破れる。それでも進む。一歩。二歩。ネフィリアまであと少し。翼が動いた。吹き飛ばされる。背中から床へ叩きつけられた。肺から空気が抜ける。「っ……」起き上がる。右腕の墓碑紋が熱い。完全契約はまだ切れていない。なら。つながっている。彼女がどれほど深い場所に沈んでいても。「もう一回だ」自分へ言い聞かせる。走る。今度は翼が振られる前に飛び込んだ。ネフィリアの身体を抱く。冷たいと思っていた肌が、今は焼けるほど熱かった。「離れ……」声。聞こえた。「ネフィリア?」「離れて……」本人の声。だが苦しげだ。「殺す……」「誰を」「全部……」抱いた身体が震える。黒竜の記憶へ呑まれた自分と似ている。しかしネフィリアの中にあるのは、一人分の記憶ではない。深淵王家。滅びた一族。その血に刻まれた魔力。何百年もの封印。怒り。恐怖。孤独。全部。「渡せ」リュゼルは彼女の背へ手を回す。「魔力を俺へ流せ」契約へ意識を向ける。
ネフィリアが「自由になりたい」と口にした瞬間、地下神殿は、長い眠りから目覚める獣のように身震いした。床に刻まれていた古代文字が一斉に黒紫色の光を帯び、何百年もの間、埃と血に埋もれていた溝を光が走っていく。柱から柱へ、壁から天井へ。振動は次第に大きくなり、継ぎ目から細かな砂が降り注いだ。奥の部屋で休んでいた子どもたちが不安そうな声を上げ、三匹の月角兎が物陰へ駆け込む足音が聞こえる。「ネフィリア、下がれ」リュゼルは反射的に彼女の前へ出た。だが、下がれる場所などない。ネフィリアの首と腰、両足から伸びる六本の黒鎖が、何者かの手に引かれたように空中へ持ち上がっていた。金属でできているはずなのに、鎖の表面が濡れた生き物の皮膚のように脈打つ。黒い魔力が一節ずつ膨れ、それぞれの先端から床へ滴り落ちた。一滴。二滴。黒い雫が石床へ触れるたび、人の形へ盛り上がる。鎧。兜。長剣。最初の一体が姿を現した時、リュゼルの右腕に刻まれた墓碑紋が激しく焼けた。「……こいつら」ネフィリアの声が低くなる。六本の鎖から、一体ずつ。計六体。全身を黒銀色の重鎧で包んだ騎士が、半円を描くように二人を囲んでいく。顔は兜の奥に隠されている。目に当たる隙間には赤紫の光だけが灯り、そのどれからも生者の呼吸は聞こえなかった。生きていない。だが、ただの人形でもない。「《刑罰騎士》……」ネフィリアの唇から、絞り出すように名が落ちた。「知ってるのか」「深淵王家の処刑に使われた魔法人形よ。正確には、処刑者たちの戦闘記録と意思を写したもの」彼女の頬から血の気が引いている。「王家に背くことを許さないための兵器だった。それが最後には、王家を殺すために使われた」六体の騎士が、同時に剣を抜いた。重い金属音が重なる。音だけで胸が圧迫される。「どうすれば鎖が外れる」リュゼルが問う。「おそらく」ネフィリアの視線が六本の鎖を辿る。「一体につき一本。あれを倒せば、対応する封印が砕ける」「全部で六」「ええ」「分かりやすいな」「笑っている場合?」「笑ってない」最前列の刑罰騎士が踏み込んだ。速い。重鎧の重量を感じさせない。リュゼルはネフィリアを抱くようにして横へ転がった。直後、剣が二人のいた床へ叩きつけられ、石が砕け散る。破片が頬を掠め、熱い筋が一本走った。立ち上がる
ネフィリアは、その夜ほとんど口を開かなかった。神殿に残された古い寝台へ腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、どこでもない場所を見ている。青白い鉱石灯が銀髪の輪郭だけを浮かび上がらせ、紫紺の瞳の奥までは照らさない。六本の鎖は、いつもと変わらず彼女の身体から伸びていた。首。腰。両足。そして背後の封印柱。何年、何十年、あるいはそれ以上。彼女はそれを当然のものとして身につけてきた。リュゼルは少し離れた場所で、肩の包帯を巻き直していた。片手ではうまく締められない。何度目かで布が緩み、舌打ちしそうになる。「貸して」ネフィリアが言った。顔はまだこちらを向いていない。「いい」「あなたは片手で巻くのが下手」「慣れてないだけだ」「慣れないで」短い言葉。リュゼルは手を止めた。ネフィリアが立つ。鎖を引きずりながら近づき、彼の横へ座る。包帯を受け取る。冷たい指先が肩へ触れた。布を解く。傷口を見た瞬間、眉間へ小さな皺が寄った。「深い」「動くから余計に開いた」「自覚があるなら動かないで」「ザハルに言ってくれ」「死んだ者へ説教する趣味はないわ」包帯を巻く手つきは意外なほど丁寧だった。少し強く締められる。「痛い」「罰よ」「何の」「私に同じ傷をつけた罰」「契約したのはそっちだろ」「だから腹が立つの」理屈が通っているようで通っていない。けれど、そのやり取りが終わると、再び沈黙が降りた。古地図は二人の前に広げてある。裏面の文字。《王女を解き放つな。彼女が望むまでは》リュゼルはその一文を何度も見た。ヴァルディオス。最初に看取った古代魔獣。彼の中にはその記憶の断片が眠っている。もっと深く潜れば、この言葉を書いた理由が分かるかもしれない。「調べる」リュゼルが言う。ネフィリアの手が止まった。「何を」「ヴァルディオスの記憶」「駄目」即答。「理由は」「分かっているでしょう」「でも」「駄目よ」声が強くなる。リュゼルは黙った。《葬送継承》で受け取った記憶は、ただの知識ではない。死者の感情。痛み。恐怖。願い。深く触れれば触れるほど、それらと自分の境界が曖昧になる。一度、ヴァルディオスの怒りに呑まれかけた。あの時はネフィリアの声で戻った。次も戻れる保証はない。「私のことで、あなたが自分
城の北側へ伸ばしていた影鳥が一羽、翼を半ば失った状態で戻ってきた。黒い羽根を散らしながら城門を越え、石床へ落ちる。ネフィリアがすぐに片膝をつき、掌へ乗せると、魔力で作られた小鳥の輪郭が数度揺らいだ。外敵に攻撃されたのだと理解した瞬間、近くで荷の整理をしていたイセラの黒豹の耳が立った。「人?」「ええ。それもかなり多いわ」ネフィリアは目を閉じ、壊れかけた影鳥が最後に見た光景を読み取った。紫紺の瞳を開いた時、その表情からわずかな緩みも消えている。「三十七。全員人間。統一された甲冑を着ているから、傭兵ではないでしょうね」「紋章は?」ヴァレクの声が背後から飛んだ。いつもより低かった。彼は冥甲熊との一件以来、城の武器庫を整理する仕事を勝手に引き受けていた。傷はほぼ塞がっており、黒鉄の鎧もフィオルが修理できる範囲だけ手を入れている。胸元に残された古い紋章の削り跡だけは、本人が触らせなかった。ネフィリアは影鳥から読み取った形を説明する。「白地に、剣を抱く双頭の鷲」ヴァレクの右目が細くなった。「フェルザだ」短い言葉だったが、イセラがすぐに腰の湾曲刀へ手を掛けた。「お前の国か」「元、だ」ヴァレクは訂正すると、城門へ向かって歩き始めた。リュゼルがその前へ回り込む。「どこへ行く」「俺を探している」「まだそう決まってない」「フェルザ王国の正規騎士が、観光のために奈落へ三十七人も降りてくると思うか」返す言葉がなかった。ヴァレクはそのまま進もうとする。リュゼルは退かなかった。「まず話を聞く」「俺が出れば済む」「済むかどうかを決めるのは、話を聞いてからだ」ヴァレクの眉間へ皺が寄る。しかし口論を続ける前に、外から角笛が響いた。三度。短く。軍隊が交渉を求める時の合図だとヴァレクが告げる。「向こうもすぐ攻める気ではないらしい」リュゼルは黒鎖短剣を腰へ差した。「なら交渉する」ネフィリアが隣へ立つ。「私は姿を隠したほうがいい?」「いや」リュゼルは首を振った。「ここにネフィリアがいることを隠して話しても意味がない」「相手が人間なら、私を見た瞬間に交渉が終わる可能性もあるわよ」「それでもだ」イセラが鼻を鳴らす。「相変わらず面倒な正直者だな」「嘘が下手なんだよ」「それは知ってる」城の中では、シュカたちがすでに年少者を奥
灰牙が残した荷物には、子ども用の鉄枷が三十七個入っていた。数え終えた時、リュゼルはしばらく指を動かせなかった。革袋から取り出して石床へ並べた枷は、どれも小さい。成人の手首には合わない。中には幼い子どもでも余るほど細いものまであり、内側には逃亡を防ぐための返しがつけられていた。「壊していい?」フィオルより幼く見える獣人の少年が訊いた。「いいよ」リュゼルが答えると、少年は両手で一つを持ち上げ、石へ叩きつけた。一度では壊れない。二度。三度。他の子どもも近づいてくる。誰も声を上げなかった。ただ順番に枷を受け取り、石床へ打ちつける。乾いた金属音が神殿に何度も響いた。リュゼルは止めなかった。最後の一つが歪み、使い物にならなくなってから、灰牙の荷物を改める。保存食。油。縄。解毒薬。金貨。捕獲用の眠り粉。それから、ザハルが身につけていた革袋。血と灰が付着している。ネフィリアは少し離れた柱へ背を預けていた。肩の傷は布で巻いてある。リュゼルと同じ場所。本人は痛みなど存在しないような顔をしているが、ときおり右手で左肩を押さえる。「休んでいていい」「あなたも負傷者よ」「俺は荷物を見るだけだ」「私は立って見ているだけ」「なら同じか」「そうね」短いやり取り。以前なら、それで会話は切れていた。今は不思議と沈黙が重くない。リュゼルは革袋の口紐を解いた。最初に出てきたのは、数枚の依頼書。文字は魔族領で使われる公用文字らしい。リュゼルには読めない。ネフィリアへ渡す。「何て書いてある?」彼女は目を走らせた。「回収対象。十五歳以下を優先。魔力保持者、混血、希少種は損傷を避けること」声が僅かに低くなる。「搬送先は?」「書いてない。符号だけ」「黒冠研究棟と同じか」「おそらく」紙の端には、現魔王家の紋章とは別に、小さな白い円が押されていた。それを見たネフィリアの指が止まる。「それは?」「知らない」即答だった。しかし紙を戻す動きがほんの僅かに遅れた。リュゼルは追及しなかった。次に出てきたのは硬貨。続いて黒い鍵。そして最後に、何度も折り畳まれた厚い皮紙。開いた瞬間、埃と古い油の匂いが立った。「地図か」祭室の床へ広げる。大きい。現在彼らが把握している神殿周辺だけではない。奈落の深層が、複雑な樹木
ネフィリアが神殿の外へ出ると、奈落の空気そのものが彼女を避けるように静まった。足首に残る枷から六本の鎖が伸び、石床の上を擦っている。可動範囲の限界は、祭室から十数歩。それ以上は進めない。それでも彼女が姿を見せただけで、二十人近くいた灰牙の傭兵たちから声が消えた。銀白の長髪。黒曜石を思わせる角。胸元に揺れる、黒い雫型の王家の宝石。「本物……なのか」誰かが呟いた。「深淵王家は全員死んだはずだ」「処刑されたって……」「見るな。呪われるぞ」恐怖は、小さな声ほどよく広がった。ネフィリアは一つも反応しなかった。視線は最初からザハルの足へ向いている。その下にはリュゼルがいる。肩から血を流し、胸を踏みつけられ、息を整えようとしている彼だけを見ていた。「私の契約者から足を退けなさい」静かな声だった。怒鳴ってはいない。だからこそ、傭兵たちの背筋を冷たいものが走った。ザハルは一瞬だけ目を細めたあと、口角を持ち上げた。「契約者?」わざと靴へ力を込める。リュゼルの肋骨が軋んだ。ネフィリアの紫紺の瞳が細くなる。「聞こえなかった?」「聞こえたさ」ザハルは彼女の角から宝石へと舐めるように視線を動かした。「王家の生き残り。しかも女。こりゃ大当たりだ」部下たちが戸惑う。「隊長、やめたほうが……」「黙れ」「でも深淵王家は禁忌指定が――」「だから高えんだよ」ザハルの目に、露骨な欲が浮かぶ。「現魔王家に持っていきゃ、どれだけ出すと思ってる。死体ですら値が付く血だ。生きてりゃ桁が違う」ネフィリアの表情は変わらない。「王家は滅びた」ザハルが嘲る。「お前には何もねえ。国も、兵も、お前の名前に跪く臣下もいない。鎖につながれた小娘一人で何ができる」「ええ」あまりにも簡単に認めたため、ザハルの笑みがわずかに止まった。ネフィリアは足元の鎖を拾い上げた。冷たい金属が白い指の中で擦れる。「私には国も、軍も、臣下もいない」声には悲嘆も屈辱もない。事実を事実として置くような声音だった。「けれど」彼女の影が、揺れた。鉱石灯の位置とは合わない方向へ。細い影が一本、石床の亀裂を這う。「それが彼へ触れてよい理由にはならない」影が爆発的に広がった。「っ!」傭兵の一人が悲鳴を上げる。黒紫色の影が足首へ絡みつき、石床へ縫いつけていた。







